140字のエチュード―VoL.16
2015年3月31日7:31
鶏もも肉を切る包丁に込められた力は、同時に他の何かも一緒に切ろうとしていた。切先のつっかかりが胸の奥に重たくのしかかってきたものの、その正体を掴むことはできず、貴方はただひたすら包丁の柄を強く握りしめている。緊張の高まった身体は必死に刃の行く手を阻んでいるかのようで、可愛かった。
2015年4月1日4:32
夜更けのベランダから雨に包まれた庭園を眺め見る。日中、噴水を沸かせるためだけにじっとしていたペリカンがぺたぺたと翡翠色のタイルを歩き回っていると、不意に無数の円盤が流れてきたので吃驚した。円盤投げの練習をしていた銅像は「お互い夢なんだから当たっても痛くはないよ」と言って微笑んだ。
2015年4月2日3:43
清々しい疲労は醜さを忘れさせる最上級の美酒。百合の花を買って家に帰ろう。初々しかったはずの帰り道も慣れてくると極々自然の美しい風景として見て取れそうな未来が嬉しかった。タンポポの綿毛が前を歩く人の背中に小さな羽根を生やして何処かへ飛んでいってしまいそう。海にはカモメが咲いていた。
2015年4月2日7:32
桜の枝が折れた夜
断端は雨に震えて
訴え続けている
幻となった花弁の
冷たい美しさを
触れない温もりを
2015年4月3日5:41
チラシの裏に一つの物語を書き写す。この物語の世界の中にずっと居たいと願いながら。僕の身体はゆっくりと紐解かれていき、次第にきめ細やかな文字列へと変わっていく。僕の身体が消えた時、僕の気持ちは!人生は!全て紙の上を流れるだろうが、やがてはそこに漂うことにすら飽きてしまうのだろうか。
2015年4月5日7:00
酉が鬼の隣を飛んでいる。私は酉を白く、鬼を虹色に塗ることにした。虹色は鬼の輪郭を貫き、淡い空へ滲み広がっていった。時を巻き戻せば案の定、天上へ引き寄せられてゆく雨粒に太陽光が反射し、プリズムのように拡散した。これから白くなるはずだった酉の正体が鳳凰だったことに今気づけて良かった。
2015年4月8日5:46
桜の花弁が薄氷に敷き詰まる。氷面に映った頬は白桃色に染まり、私は咄嗟に目を中空へと背けた。木花咲耶姫が自らのか細い指先に温もりの風を吹きかけ、冬と春の狭間を通り抜けていく。その儚い様を見逃さない為に瞬きを忘れた私の足元に張られた氷は粉々に砕け散り、私は花弁と氷片と共に光へ飛んだ。
2015年4月10日18:54
白い鳥が飛んでいる。青空の淑やかな薫りを浴びて。優しい鳴き声は、雪崩れる電車と人混みの足音に掻き消されたことで、その優しさを証明させた。
2015年4月12日3:40
晴れた青空の中、止め処なく水蒸気は上り続ける。濡れたアスファルトの涙も乾き、散った桜の露と混ざり合った匂いを名残惜しむかのように雀が囀る。虹は微笑む。夜はまだ起きなくていいことにすっかり安心し切って眠っている。
2015年4月12日7:58
祖父の踏み外した階段は、彼にとっては存在しないも同然だった。従って、彼はそもそも転倒などしておらず、むしろ心配して手を差し伸べている此方が変だということになるらしかった。祖父は何事も無かったかの様にゆったりと立ち上がり、再び歩き始めた。その後に二つの影がそっと夕陽に溶けていった。
2015年4月13日21:18
雨天に雷の音が鳴り響いたということは光った訳だ、その雷は。怒りを轟かせるその少し前に、私のいない場所で。いつも見慣れていたはずの街並みが急に仄白く消えてしまう様な、そんな感覚を、一瞬の光の中に見出すことができればー
私はもっとあなたを大切にできるでしょうか。