小説「虹の樹」

 

 桜の花弁の散った後、樹には沢山の言葉が生い茂っていた。忙しなく街中を歩き回る人々の目には表面的な「失望」しか映らなかったものの。精々、恋人と別れた直後の人が「惜別」の一葉を見出すのが関の山と言った所か。

 言葉は一体、誰に対して、どんな思いを伝えようとしているのだろう。

 冷たい海風が吹いてきた。もうそろそろ春の時節も終わりを迎えようとしているのに、寒かった冬を呼び起こす様な、その海風は枝に実る沢山の言葉を揺らし、その内の幾つかを振るい落とした。その中には先程の表面的な「失望」や「諦め」といった観念的なものから、「事故」や「自殺」といった何らかの出来事を示唆する様なものまで、多岐に渡った所謂、「悲しみ」というものを含んでいた。

 とは言え、それらの言葉を失った所で、桜の樹は別に何とも思わなかった。もしかすると、いつの間にか「感情」という言葉さえも、知らない内に無くしてしまっているのかもしれない―、という微かな恐怖すらも、「覚えた」というより「覚えたかった」と言った方が適している様に思えた。

 それにしても―、桜の樹にとっては、何もかもが不可思議だった。たった今、自分の身から散っていった言葉の中には何一つとして、「美しさ」や「素晴らしさ」といった要素は含まれていないはずだというのにも関わらず、これらあれらそれらの言葉の全てが、やがては土の中へと安らかに還っていくことが! (そういえば最近、「浄土」や「楽園」といった言葉を見かけたが、これらは一刻も早く雨風に浚われたがっている風に察せられた・・・)そして、根や幹を成長させるための肥料となって再びこの場所へと戻って来ることが!

 葉桜は神秘の正体を確かめるために、地面に散らばった言葉を見つめた。その中には白桃色の花弁も無数に敷き詰められていた。葉桜はこれらの花弁がかつての自分の姿そのものだったという過去をどうしても信じられなかった。というのも、花弁が余りにも爽やかに、かつ官能的に、そよ風にふわふわと乗って天使のように舞っていたからだ。もうとっくに生きる力を損なっているはずだというのに、花弁の中には伸ばされた枝の先端よりも高く高く上空へと舞い上がるものもあり、ぼくは酷く哀しくなった。と、嘆き悲しもうとする間もなく―

 枝先から「ぼく」という言葉が何事もなかったかの様にハラリと散っていった。仕方なく「Boku」が「僕」という言葉をわさわさと引っ張り出して来れば、これらの言葉もまた同様に呆気なく散っていった。葉桜は性格上、「俺」を使うことを厭うていたから、今度は「わたし」や「私」を取り出した所で結果はまるで変わらず、「葉桜」は「自分」のことを何と表現すればいいのか、分からなくなってしまった。そうこう言っている内に「○○」は目の前が真っ白になり、一瞬何も見えなくなった。眩しい日差しは昨日よりも「変に」「暖かく」感じられ、季節は冬へと逆行していくかの様だった。

 雀が飛んで来た。とても楽しげな歌声を口ずさんでいる。幸い、意味は分からなかったので、原因不明の病によって言葉を失う必要のない者は一先ずホッと一安心した。雀のクラシカルな鳴き声が、数々の主語を失った者の意識を次第に冷めさせた。

 考えてみれば、いずれは再び戻って来る言葉を一々、失うことに怯える必要など無いはずだった。とすれば、主語を失った―この、一連の出来事の当事者は、一体、何に対して「怯えている」のか、いや、「怯えようとしている」のか。

(何をそんなに考え込んでいるの?)並木道の向かい側に生えている樹が尋ねてきた。(こんなにも雀が素敵な歌を披露してくれているというのに)

(そうだね、本当に―)向かいの樹に同調して、それからほんの少し間を置いた後に(ごめん、考えていることは上手く言えないことかもしれない)と曖昧に答えた。雀は相変わらず歌い続けていた。(こっちに来て歌って欲しいなぁ)向かいの樹が羨ましそうに言ったその声が、とても憎たらしくて可愛かった。思わず、「殺して」やりたいと思える程のものだった。

「こ・ろ・し・て」木肌にこだましたその声にならない声と、幹の中から湧き上がった思いが共鳴した。底を見ればとても軽い、けれどもしっかりとした芯を持った何か、がよりかかっている。先程の日差しとはまた違う、とても「優しく」「傷ついた」「暖かさ」が心にじんわりと伝わってきた。こんなにも素敵な何か、がこの世に存在しているのなら、「○○」はその正体が永遠に分からなくても仕方がないと思ってもいいかもしれないと、はじめてそう思えた。

(何も言わずに、ここでゆっくりしてっていいんだよ)

「○○」はできる限りの「優しさ」を幹や枝に実る全ての「緑」に込めた。何か、は意を決したかの様に言葉を一枚、摘み取って行った。幸せな「痛み」が残された言葉を刺激した。葉裏に言葉にならない思いが影となって鮮やかに詰まった時には、もう既に「虹」は心に描かれている。