小説「幸福な未来」

 

 ある日の夜のこと、大学から帰宅した青年が自分の部屋の中に入るとそこには見ず知らずの老人がいた。老人はいつも青年の座る椅子に我が物顔で腰掛けていた。

「何なんだ。勝手に人の部屋に忍び込んだりして。不法侵入の罪で警察に訴えますよ」

「いやいや、これは失礼。急に驚かせてしまって。だが決してわしは不法侵入などしていない。わしの顔をよく見てみろ」青年は老人の顔をまじまじと見つめて首を傾げた。

「おや、何だか誰かに似ている気がするな」

「誰かではなく、お前だ。似ているも何もわしはお前自身なのだからな。西暦2010年現在20歳であるお前の60年後の姿がこのわしということになる」

「そんなSFまがいなことを言われてもにわかには信じられない」

「今の時代に生きるお前がそう思うのも無理はないな。しかし現在から約30年後に世界で初めてのタイムマシンが完成する。それからマシンは急速に普及していって、わしが年老いたこのみすぼらしい容姿になる頃には誰もが気軽に利用できるようになっているのだ」

 当初、青年は余りに突然襲った事態を把握するだけで精一杯という具合だったが不意に、我に戻り一転して、失望した面持ちになって老人のことを憐れむように眺めながら問いかけた。

「それにしてもどうしてわざわざ僕に会いに来たのですか? 正直言って僕は別に老い衰えた自分の姿なんて見たくもなかった。どうやら身体の調子も悪くなっているようですしね」思わず青年はちらりと老人の下半身を一瞥せずにはいられなかった。両方の足が不自由になっていたのだ。これが将来の自分だと思うとひどくやるせなくなる。老人はそうした青年の気持ちを全て見透かしたような口ぶりで話し始めた。

「実は今夜、昔のわしに会いに来たのもそのことで忠告したいことがあったからだ。このままの予定だとお前は明日の朝、大学へ向かう途中の交差点で車に轢かれて大怪我を負うことになっている。何とか命は助かるものの事故の後遺症が原因で二度と両足を動かせなくなる。そのせいで夢も諦め、おまけに女にもモテず、失意の底でろくでもない人生を送ってしまう」

 老人の予言を聞いた途端、青年の全身に悪寒が走り、冷や汗が止め処なく流れ落ちた。そんな馬鹿げた未来など絶対に避けなければならない。青年にはまだまだ叶えたい夢もたくさん持っていたし、最近好きになってできれば彼女にしたいと狙っている女性もいたのだ。そうした目標に挑む大切な機会や時間をそんな理不尽な事故なんかに奪われてたまるものか。

「なるほど、それは確かに事前に知らせていただき非常に助かりました。明日は用心して一日中家で過ごすことにします」

「うむ、宜しく頼むぞ。その時になってお前が事故に遭いさえしなければ、それに応じて未来も変わりわしの身体も元通りになるはずなのだ」

「未来の僕のためならどんなことでも喜んでしますよ。明日の件はお任せください」

 青年がそう言い終えた時には既に老人の姿は影も形もなくなっていた。

 翌日、青年は老人に宣言した通り一日中家にいた。当然、これといった事件も何も起こらなかった。夜になって青年はリビングで晩ご飯を食べ終えた後に部屋に戻ると、そこにはなんと老人と呼ぶには失礼な程の瑞々しい若々しさを保った未来の自分の姿があった。老人は嬉々として青年を讃えて礼を言った。

「お前のおかげで見ての通り、わしの身体は以前にも増して数段逞しいものとなった。勿論、夢も叶えたし、多くの女にもモテた。いろいろと大変なことがあるとは思うがお前もこれからの人生を楽しんで謳歌してくれ」

「いいえ、僕としても前途有望になったようで一安心です。それはそうとして、あなたはもう経験しているからお判りでしょうが今、僕には一目惚れしてとても好きな女性がいます。あなたはその女性とどのようにして付き合えましたか?」青年は胸躍るような心地で尋ねた。しかし老人の答えは意外なものだった。

「ああ、そういえばそんな女もいたな。確かに美人といえばそう言えなくもなかったが、あんな奴のことなんか気にしない方がいいぞ。綺麗な女なんていうのはもっと山ほどいるからな」

 老人のその言い方が青年の癪に障った。僕は今、真剣にあの女性のことを好きだというのに。両足が治ったかと思えばなんというひどい人間になってしまったことか。矛盾している様でもあるが青年は絶対に将来、こんな男にはなってたまるかと心に誓った。青年が若々しくなった老人に向かって文句を口にしようと思った瞬間、その姿は眼前から消え去ってしまっていた。この現実味に欠ける二日間の出来事について、青年は全てが幻だったのではないかと自身のことを疑いもしてみたものの、次の日の朝になっても老人に対する憎しみが治まることはなかった。

 その日、青年は大学へ行くと丁度ばったり片思いの女性に出会った。青年はこれをある種の運命だと直感的に思い覚悟を決めて告白をした。勿論、未来の自分に勝つためでもあった。しかし決死の意気込みとは反比例して結果は散々だった。女性には「全く眼中にさえなかった」と足蹴にされて終いには告白されたこと自体が迷惑であるといった表情で「もう二度と私には付きまとわないで」ときっぱり振られてしまった。

 失恋に心を痛めた青年は近所のバーで夜通し飲み明かした。いつの間にか意識を失っており、目の覚めた時にはもう朝になっていた。青年が時計を確かめると大学の講義が始まるまであと僅か。その時になって青年は今日が大事な試験のある日だということを思い出した。青年は焦って身支度をして大学に向かった。交差点の信号が赤になっている。しかしこのままではどうにも試験の開始時刻に間に合いそうもない。車は殆ど通っていない。青年は赤信号を無視して交差点を走り抜けようとした。そこへ偶然スピードを上げた車が急カーブして来て・・・。

 気がつけば青年は病室のベッドに横になっていた。身体を動かそうとすると全身に痛みが走りそれどころではなかった。そこに医者が診察にやって来て、

「この度は大変な事故でした。何とか手術で一命は取り止めたものの下半身は残念ですがもう・・・。ですが決して絶望して自殺など為さってはいけません。あなたはまだお若いのですから」それに対して青年は淡々とした表情で答えた。その声は空しく明るい響きを帯びていた。

「ええ、勿論。60年後の幸福な未来が僕を待っていますから」