小説「美女」

 

 「お願いします。どうか私を逮捕してください」

  突然交番の前に現れ、私に対してその言葉を発したのは一人の若い女だった。この辺りは普段から人通りも少なくめったに交番を訪ねる人間もいないため、私はこの奇妙な申し出によって動じた心情を咄嗟に誤魔化そうと女のことを訝りつつも質問した。

 「どうか、されましたか?」

  女は無言で首を振った。益々この女を不審に思った私はもう一度確認するかのごとく尋ねた。

 「では、あなたは何もされていないというのに捕まろうとおっしゃるのですか?」

 「はい、確かに私はまだ何の罪も犯していません。ですがこのまま私を放っておけば必ずや社会に害を与える存在となり得るでしょう。そうなる前に早く私を逮捕して欲しいのです」

  この女の不可解な言動に私はひどく困惑した。一瞬ふざけているだけなのではないかという疑惑が脳裏によぎったが、女の眼差しは至って真剣そのものでとても嘘をついて話しているようにも思えなかった。そうかといって女の頼みを聞く訳にもいかないのは明らかだった。第一、そんなことをすれば法律違反で捕まるのはこちらの方だ。しかし同時にこの女の言動をただの迷惑行為としてこのまま無下に扱うことは何だかしてはならないような、所謂、刑事としての第六感も私の中で微かに働いていた。

  一先ず女を所内に連行し、精神科医に鑑定をしてもらった。最近は一見ちゃんとしているように見えても実は鬱病発達障害を患っていたり薬物中毒だったりするような人間も多い。きっとこの女もその中のどれかを患っていて心を病んでいるのに違いない。そう見込んでいたのだったが、鑑定医による診断は私の期待を見事に裏切るどころか、どこか私に対して敵意を見受けられるようなものだった。

 「この女の心身が至って健康そのものであるのは明らかです。どこにも異常を来しているようなところなんてありません! そもそもこの女を疑うこと自体全く取るに足りない行為のように自分には思われます。もしも異常があるとすれば何か他の原因ではないですか?」

  どこか腑に落ちない思いを抱きながらも次に私は女の経歴を探ってみた。もしかするとこの女は早くに両親を亡くしてしまったのではないか? いや、両親ともに存命だ。だが両親がいたとしても早くに離婚してその後親戚に引き取られてから虐待を受けたのかも? 残念ながらどうやら今も家族みんなで一つ屋根の下で暮らしているようだ。近所の評判もよく一般的な家庭よりも裕福な生活を送っている。しかし金持ちというレッテルを貼られたせいで周囲にも馴染めず学生時代もいじめで悩んでいたのでは? いいや、それも違う。当時の女を受け持った担任によると「真面目で成績も常に上位。運動神経もよく快活だったためクラスの中でも自慢できる一番の人気者」だったそうだ。ただ最近の学校は何か事件が起きた時の責任逃れとしてこういう模範解答をするところが殆どだ。あの女も仮にそこでは上手くやり過ごすことができたとしても度重なる人間関係の苦労から自分でも気づかぬうちに少しずつ精神バランスを崩していったのかもしれない。それでしだいにストレスを消化しきれなくなって何か世の中に対して漠然とした復讐心のような憎しみを抱いて孤独に苛まれているのではないか? 女についての情報を洗いざらい調べ上げているうちに私の中に何か漠然とそうあってほしいような思いが沸いてきたのは、非の打ちどころのないこの優秀な女に対する嫉妬によるものかそれとも私の内面に潜む別の何かなのか考え始めた時にはもう遅かった。女は美しかった。

  不意に取調室の中から扉を叩く音が漏れた。中で女を待機させていたのだった。

 「まだでしょうか? 一体いつまで調べれば気が済むのでしょうか? これ以上調べても証拠も何も出てくるはずはありません。早く私のことを捕まえてください」

  女の黄色い声がハープのように耳の内側でとろんと鳴った。いけない。完全にこの女に魅了されてしまっている。このままでは取り調べをするどころではない。しかしドアノブを引いて女の色気が漂う室内へと引き込まれてしまう自分を抑えるだけの自制心が何故か今の私からは完全に失われていた。

 「お待たせしました」焦る気持ちを何とか卒のない言葉で覆い隠そうとする。

 「さまさまな方面からあなたのことをお調べしましたが、どうやらあなたに関連するような事件は特に見当たらないようです。それどころかあなたのこれまでの人生は完璧で、それでいて美しいものです。どこにもあなたを捕まえる理由はありません」なぜか顔中が火照ったように熱くなってくる。

 「いいえ、だからこそ逮捕してほしいのです。あなたも既に薄々感じ取っていますでしょう? 私に関わった人間の全てが私の意思に関わらず私のことを愛してしまうことを。その愛憎の気持ちによって私の周りにいる人々の心に絶えず争いが絶えないことを」

 「しかし私の調査によればそんな出来事は微塵も、見つからなかった・・」呼吸が荒くなるのが分かった。

 「それは私への危害が及ばぬようにして私のことを独占したい家族や先生の愛情です」

 「だったら、猶更、捕まえ、る訳には・・・」平然を装うのが必死だった。

 「あなたはもう分かっているはず」

  女の諭すような口調が優しく私の耳に吸い込まれていったかと思った途端に背後から扉が勢いよく押し倒された。部屋に入った時点で確かに内側から鍵を掛けておいたはずだ。現れたのは先程の精神科医だった。瞳はひどく獰猛に充血しており、右腕には鋭利なナイフを握りしめている。

 「いい加減彼女のことを解放するんだ!」

  そう叫んだかと思えば精神科医は彼女に向かって突進していった。次の瞬間、血液の噴水が部屋中を朱く染めたのが分かった。私は消え入りそうになっていく意識の隅でその血が自分の胸から湧き出たものであったことを知覚した。傍で悲鳴を挙げているのは私が何としても守りたかった彼女だった。その奇声すらも私の彼女を愛おしく思う気持ちを強くさせた。確かに彼女は生まれながらの罪人なのであった。そしてこれからも罪人として生きていかざるを得ないのだろう。なぜなら彼女を捕まえようとして求めれば求めるほど却ってその心は彼女の美貌に捕えられて終いにはその犠牲と成り果ててしまうのだから。