小説「思い出」

 

 小学生の頃、ぬり消しが流行っていた。机の上に散らばった消しカスをせっせと集めてはぐりぐり。粘土のように押し固めたぬり消しは次の授業が終わるまでなくさぬよう筆箱の隅に閉まっておくのだ。

 ぬり消しの醍醐味は何と言ってもライバルと大きさや形を競うことだ。言うまでもないがやはり、デカいぬり消しはそれだけで強かった。それなりの根気と時間がなければ、ぬり消しをそこまで成長させることはできないからだ。かと言って、男の価値と同じように?、大きさだけで勝負は決まらない。やはり形が良くなければ真のぬり消し職人とは呼べないだろう。一般的には綺麗な球体に仕上げるのがベストだと言われるが、こればっかりはぬり消し職人の美意識に左右されるところもあり、一概に必ずしもこれが正解とは言えない。

 とは言え、何故ここまで私がぬり消しのことを熱く語ったかと言うと、何を隠そうこの私が自称・初代ぬり消し王に輝いた男だからだ! 6年間でぬり消しに懸けた思いは誰よりも熱い。そう、私がぬり消しと出会ったのは1年生の漢字テストの時だった。当時の私はまだそれ程、漢字も知らない癖して変に気取って自分の名前を漢字で書こうとした。しかし、当時の私に憂うつの「ウツ」は難しすぎた。だが、ここまできて簡単に諦めるのは男ではないと幼いながらも私は思った。憧れのチョイ悪親父・ジローラモならば、この局面でも自分と向き合い、自らのアイデンティティを漢字で正確に表明するはずだ。とは言え私は焦った。迫りくる試験終了の時間。クラスメイトの鉛筆を動かす耳障りなカリカリ音。その音が教室の中央に掛けられている時計のチックタックという無機質な音と絡み合い、私の胸を刺した。冷や汗が首筋をスッと辿るのが分かった。私は悟った。今の私の力では憂うつの「ウツ」は書けない。それでも。それでも、今の私にも何かできることはあるはずだ。そう、今の私でもなんか近いニュアンスの字を創造することはできる! 残り少ない試験時間の中、私は必死に書いた。少しでも「ウツ」に近づこうという思いで何度も漢字を書いては消し、消しては書いた。それを繰り返した回数、456回。ちなみにこの回数に根拠はないが、これはもしかすると後に伝説の消しカス生産記録として後世へと語り継がれる大変な記録になるかもしれないし、ならないかもしれなかった。兎にも角にも、私は書いた。そして、消した。夢中だった。

 気づけば試験時間は終わっていた。私の問題用紙の名前を書く欄はビリビリに破けていた。勿論、解答欄は白紙だった。なのにどうしてだろう。私の心の中には何とも言えない充足感が広がっていた。

 次の瞬間、私は机の上に無数の鼻クソみたいな消しカスが縦横無尽に敷き詰められているのを目にした。元々、薄茶色だったはずの机の色がどす黒く変色しているのが恐ろしくなり、すぐさまそれらを床に払い落とそうとしたその時だった。「ちょっと待てよ」というキムタク風の声が背後から轟いたのは。

 振り返ると一人の男がじっとこちらを見つめていた。全体的に恰幅の良い体型、要するにデブなのだが、その割にピチピチのスーツを着ているために見ていてとても暑苦しい。しかも、止せばいいのに髪型だけはいっちょ前に肩まで伸ばしたキューティクルなセミロングでいかにもキムタク風に整えている様子が見え見えなのだから呆れるばかりである。こういうナルシストタイプの人間とは絶対に友達になりたくないと私は思った。それにくれぐれも強調して繰り返すが、本物のキムタクではなく、かと言って顔貌がちょっと似ているとかいう訳でもなく、他人の目から見て強いて挙げるならば誰かという問いにそう答えざるを得ないようにコーディネートしているのだから余計に腹が立つ。

「ちょっ、ゴホン。ちょっと、待てよ」

 男が再びそう言った時、私の中で何かが弾けた。自分の中で納得のいくキムタク風ボイスを発声できたようで満足気な男の不細工な顔をどす黒くぬり潰してやりたい衝動に駆られた。

「これっぽっちも似てねぇんだよぉぉぉぉ!!!」

 余りの怒りに我を忘れた私の身にその後、何が起きたのかは憶えていない。キムタク風のブサメンの姿ももうどこにも見当たらなかった。気がつけば、机の片隅には黒真珠のように妖しい光を放つぬり消しが置かれてあり、私を見つめているように思われた。そのぬり消しには私を惹きつける不思議な魅力があった。それはまるで生まれたばかりのチワワの潤んだ瞳を抜き取り、みずみずしい眼球を丁寧に保存したような鮮度を保つ一方で、銃撃戦の繰り広げられている最中に不運にも流れ弾に胸を貫かれ誰にも気づかれぬうちに死を遂げた娼婦の腐った乳輪のような不気味さも反映しているようだった。教室内のカーテン越しに夕陽が射し込んでくる。私はふと、本日の授業は全て終了し、周りの生徒も皆、既に下校し、教室内に残っているのは自分一人だということに気づいた。しかし、クラスメイトからいじめられた事実が発覚したにも関わらず、私はたった一人取り残されたという孤独感に苛まれることはなかった。そして、その理由が机上にある黒真珠、いやぬり消しの存在感の大きさに圧倒されているからだということはすぐに分かった。私は畏れ多い気持ちを持ってぬり消しを手に取った。これが私とぬり消しとの出会いの一部始終である。